徐晃(公明)とは?出自と武将としての特徴
徐晃(じょこう)字は公明(こうめい)は、中国後漢末期から三国時代にかけて活躍した魏の名将です。もともとは楊奉という軍閥に仕えていましたが、後に曹操に投じ、その戦略眼と実直な性格で高く評価されました。
彼は「堅実な将」として知られ、無謀な戦いを避けつつも、ここぞという場面では果敢に攻める冷静な判断力を持っていました。
曹操配下での活躍と信頼
白馬の戦いで初の大功
徐晃が名を上げたのは、「白馬の戦い」において袁紹軍の名将・顔良を破った一戦。この時、関羽と共に戦ったことで、両者の因縁が生まれたともいわれています。
この功績により、曹操から正式に将軍として取り立てられました。
合肥・潼関など数々の戦い
徐晃は、合肥や潼関の戦いなど多くの重要戦役に参加しました。特に、張遼と共に戦った「合肥の戦い」では、呉の大軍を少数で迎え撃ち、見事な防衛を成功させたことで名を高めました。
また、後方支援や補給線の確保といった地味ながら重要な任務も率先してこなし、軍内での信頼は非常に厚かったといわれます。
樊城の戦いで関羽を撃退
魏の危機を救った決断力
徐晃の最大の見せ場は、「樊城の戦い」での関羽との対決です。荊州を制圧し、曹仁が守る樊城を包囲した関羽に対して、徐晃は増援部隊を率いて出陣。水攻めによって困窮する城を救うべく、自ら先鋒となって突破口を開きました。
この戦いにより関羽は退却を余儀なくされ、魏の領土防衛に大きく貢献しました。これが「関羽最大の敗北」とも言われる所以です。
冷静沈着な名将としての評価
徐晃は、勇猛なだけでなく、常に全体を見て行動できる将として、軍内外からの信頼を集めていました。部下に対しても公平で、私情を持ち込まず、規律を守ることを重視したと伝えられています。
徐晃の晩年とその死
晩年の徐晃は、曹丕の代になってからも厚遇され、魏の重要な将軍として重用され続けました。しかし、樊城の戦いでの無理な行軍や戦傷がたたり、ほどなくして病没したとされています。
彼の死後、その忠誠心と軍功を称えられ、「壮武将軍」として追贈されました。
まとめ:魏を支えた「堅実なる戦略家」徐晃
徐晃(公明)は、三国志の中でも派手さには欠けるかもしれませんが、その堅実さと誠実さで魏の礎を築いた名将です。合肥、潼関、樊城といった重要な戦場での活躍は、魏の安定を支える大きな柱でした。
また、関羽との対決において冷静に勝利を収めた実績からも、ただの戦士ではなく、戦略家としても一流だったことが伺えます。
三国志に登場する将軍たちの中で、徐晃のような「地味だけど堅実な名将」にもぜひ注目してみてください。