三国志に登場する名将・李典(字:曼成)とは?
三国志において、魏に仕えた知将として名高いのが李典(りてん)字は曼成(ばんせい)です。彼は曹操配下の武将として知られ、武勇に優れるだけでなく、法を重んじる理知的な人物としても評価されています。今回は李典の生涯を振り返りながら、その功績や性格、歴史的評価について詳しく紹介します。
李典の出自と若き日の活躍
李典は幽州出身とされ、若い頃から武勇に優れていたと記録されています。もともとは同族の李乾の家臣でしたが、李乾の死後、家督を継いだことで李典自身が軍事の中心となりました。その後、曹操が台頭すると彼に仕えるようになります。
特に李典は、曹操の宿将・張遼や楽進と共に合肥防衛戦で大活躍を見せ、魏にとって欠かせない存在となります。中でも有名なのが、関羽の進軍を阻止した合肥の戦い。李典の冷静な判断と統率力が光った瞬間です。
合肥の戦いでの活躍と関羽との対峙
208年、孫権軍が合肥に攻め込んだ際、李典・張遼・楽進の三将が共に守備に当たりました。このとき李典は、私情に流されることなく、一時不仲だった張遼と連携して勝利を収めたことでも知られています。
また、関羽が荊州を治めていた際にも、李典はその動向に目を光らせ、戦略的な対応を行いました。関羽のような英雄に対しても冷静に対処できたのは、李典の知略あってこそでしょう。
李典の人物像と統治者としての評価
李典は武勇に加え、「法を守る」ことを第一とする性格であったといわれています。部下への処遇にも厳格で、公私混同を許さない姿勢から、部隊の規律は非常に高かったと伝えられています。
また、彼は戦場だけでなく、治政においても功績を残しています。配下の民に対して公平に接し、農政にも力を入れるなど、文武両道の将として後世にも評価されています。
李典の死とその後の評価
李典は若くして病死したとされており、彼の死を惜しんだ曹操が深く悲しんだという逸話が残っています。その死後、魏では彼の忠義を称えて多くの礼遇が与えられました。
史書『三国志』(陳寿著)では、李典について「剛毅でありながら義に厚い人物」と評されています。また、裴松之による注釈でも、李典の知略や人格が称賛されています。
まとめ:李典(曼成)は三国志における忠義と理知の象徴
三国志に登場する数多の武将の中でも、李典はその忠誠心と冷静な判断力、法を重んじる姿勢で一線を画しています。張遼や楽進との連携、関羽との対峙、そして民政への貢献など、どれをとっても魏の柱石といえる存在でした。
魏を支えた忠義の将・李典(字:曼成)の生涯は、現代においてもリーダーシップや倫理観を考えるうえで大きな示唆を与えてくれます。