夏侯淵(かこうえん)と聞くと、皆さんはどんな武将を思い浮かべるでしょうか?
僕の中ではずっと、
「弓がめちゃくちゃ上手い武将」
というイメージがありました。
そして弓の名手といえば、蜀の黄忠。
そのため僕の中では、
「魏の夏侯淵、蜀の黄忠」
という感じで、弓の腕なら肩を並べる二人というイメージが強かったです。
ところが正史『三国志』を中心に夏侯淵の生涯を調べていくと、僕が持っていたイメージとはかなり違う人物が見えてきます。
史実の夏侯淵を象徴するのは、弓よりもむしろ、
「速さ」
です。
軍中では、
「三日で五百里、六日で千里」
と称されたほど、素早い軍事行動を得意としていました。
曹操軍の中でも特に西方で活躍し、各地の反乱勢力を次々と撃破。
曹操が漢中から撤退した後には、重要拠点を任されるほどの将軍になります。
しかし、その夏侯淵を待っていたのが、
定軍山の戦い。
ここで蜀の老将・黄忠の攻撃を受け、夏侯淵は戦死します。
僕としては、
「ここで死ななかったら、夏侯淵はどこまで活躍したんだろう?」
と思わずにはいられません。
そして同時に、
これだけの武将を討ち取った黄忠のすごさも際立つ戦い
だと思っています。
今回はそんな夏侯淵について、生涯・強さ・西方での活躍・定軍山での最期、そしてゲームと史実の違いまで初心者向けに紹介します。
- 夏侯淵とは?基本プロフィール
- 夏侯淵と夏侯惇の関係は?
- 夏侯淵は曹操の身代わりになったことがある?
- 夏侯淵は弓の名手だった?
- 「三日で五百里、六日で千里」夏侯淵最大の武器は速さ
- 曹操軍の西方攻略で夏侯淵が大活躍
- 馬超とも戦った夏侯淵
- 韓遂との戦いでも夏侯淵の速さが光る
- 宋建を滅ぼし、西方で名声を高める
- 曹操も夏侯淵の活躍を高く評価していた
- 夏侯淵は「速すぎる」のが弱点だった?
- 曹操が漢中を制圧!夏侯淵が重要拠点を任される
- 劉備が漢中へ!夏侯淵最大の戦いが始まる
- 定軍山の戦い|夏侯淵VS黄忠
- 「夏侯淵VS黄忠の弓対決」だったわけではない
- それでも黄忠のすごさが際立つ
- 夏侯淵はなぜ定軍山で死んでしまったのか?
- もし夏侯淵が定軍山で死ななかったら?
- 夏侯淵は本当に強かった?
- 夏侯惇と夏侯淵、どっちが強い?
- 正史と『三国志演義』・ゲームで違う夏侯淵像
- 夏侯淵をもっと知りたい人におすすめ
- まとめ|夏侯淵は「弓」より「速さ」がすごかった魏の名将
夏侯淵とは?基本プロフィール
名前:夏侯淵(かこうえん)
字:妙才(みょうさい)
出身:沛国譙県
主君:曹操
一族:夏侯惇など
主な役職:征西将軍
最期:定軍山の戦いで戦死
諡:愍侯
夏侯淵は曹操が挙兵した初期から従った、曹操軍古参の武将です。
夏侯惇とは同族であり、正史『三国志』では夏侯惇と同じ巻に伝が立てられています。
名前も似ているため、三国志初心者のころは、
「夏侯惇と夏侯淵ってどっちがどっち?」
となりやすい二人です。
僕自身もゲームで最初に知ったころは、
夏侯淵が曹操に仕えているというより、夏侯惇についていっている
ようなイメージを持っていました。
しかし史実を見てみると、これはかなり違います。
夏侯淵自身が軍を率いて各地を転戦し、特に西方では曹操軍を代表する指揮官として活躍しました。
夏侯惇のおまけどころか、一方面を任されるほどの重要な将軍だったのです。
夏侯淵と夏侯惇の関係は?
まず整理しておきたいのが、
夏侯淵と夏侯惇の関係
です。
二人は同じ夏侯一族の武将です。
『三国志演義』などでは兄弟のようなイメージを持つ人もいるかもしれませんが、実の兄弟ではありません。
そして夏侯淵が夏侯惇の部下だったわけでもありません。
二人ともそれぞれ、
曹操に仕えた有力武将
です。
夏侯惇が曹操のそばで長年重臣として支えた人物だとすれば、
夏侯淵は、
軍を率いて各地を素早く転戦する前線指揮官
という違いがあります。
同じ夏侯一族でも、かなりタイプが違う二人だったことが分かります。
▶ 関連記事:夏侯惇とは?隻眼だけじゃない曹操最古参の名将
夏侯淵は曹操の身代わりになったことがある?
夏侯淵には曹操との関係を示す有名な記録があります。
曹操が故郷で事件に関係した際、夏侯淵がその罪を引き受けたというものです。
その後、夏侯淵自身も危険な立場になりますが、曹操によって助けられたとされています。
この記録がどこまで具体的にどのような事件だったのかは分からない部分もあります。
しかし少なくとも、
曹操と夏侯淵には若いころから深い関係があった
ことがうかがえます。
後に夏侯淵が曹操軍の重要な将軍となっていく背景には、こうした長い付き合いもあったのでしょう。
夏侯淵は弓の名手だった?
僕が夏侯淵に持っていた一番強いイメージが、
「弓の名手」
です。
『真・三國無双』などのゲームでは、夏侯淵と弓の組み合わせは非常に印象的です。
そのため僕の中では、
黄忠と夏侯淵=三国志を代表する弓の名手
という感覚がありました。
しかし、ここはゲームと史実を分けて考える必要があります。
正史『三国志』の夏侯淵伝を読むと、
夏侯淵の最大の特徴として弓の腕が強調されているわけではありません。
史実で特に高く評価されているのは、
圧倒的な機動力です。
つまり、
ゲームの夏侯淵=弓の名手
というイメージが強い一方、
史実の夏侯淵=驚異的なスピードで軍を動かす将軍
という違いがあります。
僕のようにゲームから三国志に入った人にとっては、かなり面白い違いだと思います。
「三日で五百里、六日で千里」夏侯淵最大の武器は速さ
夏侯淵を象徴する言葉があります。
軍中では夏侯淵について、
「三日で五百里、六日で千里」
と語られていました。
もちろん現代のように車や飛行機がある時代ではありません。
軍隊を率いて移動するには、
兵士、
馬、
武器、
食料、
補給物資など、
さまざまなものを動かさなければなりません。
一人で馬を走らせるのとは訳が違います。
そんな時代に夏侯淵は、
非常に素早く軍を動かすことで知られていた
のです。
僕はゲームでは夏侯淵に、
「弓は上手いけど、ちょっと動きが鈍そう」
というイメージを持っていました。
だから史実を知ったときは完全に逆でした(笑)。
実際の夏侯淵は「速さ」が最大級の武器だったのです。
曹操軍の西方攻略で夏侯淵が大活躍
夏侯淵の軍歴で特に重要なのが、
中国西方での戦い
です。
曹操が馬超・韓遂らと戦った潼関の戦い以降、西方ではまだ不安定な状況が続いていました。
曹操が中央へ戻った後も、各地には曹操に抵抗する勢力が残っています。
そこで活躍したのが夏侯淵でした。
夏侯淵は軍を率いて西方各地を転戦。
反乱勢力などを次々と攻撃していきます。
ここで、
「速い夏侯淵」
の強みが発揮されました。
敵が体勢を整える前に移動し、攻撃する。
広大な地域を軍を率いて転戦する。
夏侯淵は単純な一騎打ちの猛将というより、
機動戦を得意とする指揮官
だったと考えると分かりやすいでしょう。
馬超とも戦った夏侯淵
夏侯淵の相手には、
馬超(ばちょう)
もいました。
馬超といえば、後に劉備に仕えて五虎大将の一人として知られる猛将です。
潼関で曹操と戦った後も、西方では馬超の勢力が活動していました。
夏侯淵は馬超らに対する軍事行動にも関わります。
そして馬超が涼州方面で再び勢力を拡大しようとした際には、夏侯淵ら曹操軍がこれと戦いました。
馬超は最終的に西方での基盤を失い、その後、張魯のもとを経て劉備へ仕えることになります。
夏侯淵の活躍は、
曹操が西方を安定させるうえで非常に重要だった
のです。
韓遂との戦いでも夏侯淵の速さが光る
夏侯淵は韓遂とも戦っています。
このとき夏侯淵は、ただ正面から敵を攻撃するだけではありませんでした。
相手の状況を見ながら、攻撃する場所を判断。
敵を誘い出し、戦って撃破していきます。
夏侯淵というとゲームでは、
「弓を撃ちまくる豪快なおじさん」
という印象を持っていた人もいるかもしれません。
しかし史実では、
敵の動きを読み、
素早く軍を動かし、
戦う場所を選ぶ。
かなり実戦的な指揮官だったことが分かります。
宋建を滅ぼし、西方で名声を高める
さらに夏侯淵は、
宋建(そうけん)
という人物を討伐します。
宋建は涼州方面で長期間にわたって独自勢力を築いていました。
夏侯淵はその拠点を攻略。
宋建らを討ち、西方で大きな戦果を挙げました。
その後も周辺勢力を服従させていきます。
正史では、夏侯淵の威名が西方の異民族にも広まったことが記されています。
ここまで来ると、
夏侯淵は夏侯惇について歩いている武将
どころではありません。
曹操軍の西方方面を代表する将軍です。
僕自身、史実を知ると夏侯淵へのイメージがかなり変わりました。
曹操も夏侯淵の活躍を高く評価していた
夏侯淵の活躍を曹操も評価していました。
西方で勝利を重ねた夏侯淵に対して、曹操はその功績を認めています。
しかし同時に、
夏侯淵の弱点
についても理解していました。
曹操は夏侯淵に対し、
将軍は勇気だけを頼りにしてはいけない。
勇気を基本としながら、知略を用いなければならない。
勇気だけに頼る者は、一人の匹夫にすぎない。
という趣旨の戒めを与えています。
これは非常に興味深い言葉です。
なぜなら夏侯淵の最期を知った後に読むと、
定軍山への伏線のようにも感じられる
からです。
夏侯淵は「速すぎる」のが弱点だった?
夏侯淵の長所は、
素早い軍事行動。
しかし長所というものは、ときに短所にもなります。
夏侯淵は行動力があり、勇敢でした。
だからこそ曹操は、
勇気だけに頼るな
と注意したのでしょう。
夏侯淵は自分で動ける武将です。
前線へ出る。
素早く攻撃する。
必要なら自ら仕事をする。
それが数々の勝利につながりました。
しかし総大将になれば、
自分自身を危険にさらさないこと
も重要になります。
そして夏侯淵は後に、その危険性が最悪の形で現れることになります。
曹操が漢中を制圧!夏侯淵が重要拠点を任される
215年、曹操は漢中の張魯を攻撃。
張魯は最終的に曹操へ降伏します。
漢中を手に入れた曹操は、その後、主力を引き上げます。
そして漢中方面の守備を任された重要人物の一人が、
夏侯淵
でした。
このころの夏侯淵は、もう単なる前線の一武将ではありません。
西方で戦功を積み、
曹操から一方面を任されるほどの将軍
になっていました。
しかし漢中は、劉備にとっても絶対に欲しい場所でした。
やがて、
曹操軍VS劉備軍
による漢中をめぐる大戦が始まります。
劉備が漢中へ!夏侯淵最大の戦いが始まる
217年ごろから、劉備は漢中攻略を本格化させます。
劉備軍には、
黄忠、
法正、
趙雲、
張飛など、
強力な武将・軍師がいました。
対する曹操側では、夏侯淵らが漢中を守ります。
そして戦いの舞台となったのが、
定軍山
です。
ここで夏侯淵の運命が大きく変わります。
定軍山の戦い|夏侯淵VS黄忠
219年。
劉備軍は定軍山方面で夏侯淵軍と対峙します。
劉備軍は法正らの策を用いながら、有利な場所を確保していきました。
そして夏侯淵側の陣地に対して攻撃を仕掛けます。
このとき夏侯淵は、自ら兵を率いて対応しました。
そこへ攻撃を仕掛けたのが、
黄忠(こうちゅう)
です。
黄忠は兵を率いて攻め込み、
夏侯淵は戦死しました。
曹操軍の西方を支えてきた名将が、ここで命を落としたのです。
「夏侯淵VS黄忠の弓対決」だったわけではない
ここもゲームや『三国志演義』のイメージと史実を分けたいところです。
僕の中では、
夏侯淵=弓
黄忠=弓
なので、
「弓の名手同士の決戦」
というイメージを持ってしまいます。
しかし史実の定軍山は、
二人が弓の腕を競って黄忠が勝った
という戦いではありません。
劉備軍の作戦や陣地の位置取りなどがあり、その中で黄忠軍が夏侯淵を攻撃して討ち取った戦いです。
だから、
「黄忠の弓が夏侯淵を上回ったから勝った」
という理解は史実とは異なります。
ここは注意したいポイントです。
それでも黄忠のすごさが際立つ
史実では弓対決ではありません。
それでも僕は、
夏侯淵を知れば知るほど、黄忠のすごさも際立つ
と思います。
夏侯淵は、それまで西方で数々の戦功を挙げています。
素早い軍事行動を得意とし、
馬超らとも戦い、
韓遂を破り、
宋建を滅ぼし、
曹操から漢中方面を任された将軍です。
そんな夏侯淵を戦場で討ち取った。
これは黄忠にとって、とてつもなく大きな戦功です。
黄忠がこの戦いの後に大きく昇進したのも納得できます。
▶ 今後公開予定:黄忠とは?定軍山で夏侯淵を討った蜀の老将
夏侯淵はなぜ定軍山で死んでしまったのか?
夏侯淵の最期については、
「総大将が自分で危険な場所へ出てしまった」
という点がよく注目されます。
陣地の防備に問題が起きた際、夏侯淵自身が兵を率いて対応しました。
そこを劉備軍に攻撃され、戦死します。
ここで思い出すのが、先ほど紹介した曹操の言葉です。
将軍は勇気だけに頼ってはいけない。
もちろん、曹操の戒めを単純に「定軍山での死を予言した言葉」と考えるべきではありません。
しかし夏侯淵の長所だった、
行動力・勇敢さ・自ら動く姿勢
が、最後には危険につながったようにも見えます。
そこが夏侯淵という武将の、強さと難しさなのかもしれません。
もし夏侯淵が定軍山で死ななかったら?
これは完全に僕個人の想像ですが、
夏侯淵について一番考えてしまうのが、
「ここで死ななかったら、どこまで活躍したんだろう?」
ということです。
夏侯淵が亡くなったのは219年。
曹操が亡くなる前年です。
つまり生き残っていれば、
曹操の晩年だけでなく、
曹丕の時代の魏
でも活躍していた可能性があります。
西方でこれだけ実績を残し、一方面を任される立場にまでなった武将です。
定軍山を生き延びていたら、魏の軍事を支える重臣としてさらに名前を残していたかもしれません。
もちろん歴史に「もし」はありません。
でも、そう考えたくなるくらい、
夏侯淵の死は魏にとって大きな損失だった
と思います。
夏侯淵は本当に強かった?
夏侯淵の強さを、
単純な一騎打ちだけで判断するのは難しいです。
正史から見える夏侯淵の強みは、
機動力
行動力
勇猛さ
西方での豊富な実戦経験
独立して軍を率いる指揮能力
などです。
特に重要なのは、
「速さ」
でしょう。
敵が動く前にこちらが動く。
広い地域を素早く転戦する。
必要な場所へ軍を送り込む。
現代でいうなら、
機動戦を得意とする司令官
に近いイメージかもしれません。
ただし勇猛さが強すぎる部分もあり、曹操から注意されていました。
長所と短所が表裏一体。
そこも夏侯淵らしいところです。
夏侯惇と夏侯淵、どっちが強い?
名前が似ている二人なので、比べたくなります。
ただ、僕は役割がかなり違うと思います。
夏侯惇は、
曹操の最古参として長年そばで支え続けた重臣。
僕のイメージでは、
「曹操のもう一人の自分、分身」
のような存在です。
一方の夏侯淵は、
前線へ出て、素早く軍を動かして敵を倒していく指揮官。
曹操から西方を任され、自分の軍を率いて戦果を積み重ねました。
ゲームでは夏侯淵が夏侯惇について歩いているように見えていた僕ですが(笑)、史実を知ると印象はまったく違います。
二人とも、それぞれ別の役割で曹操軍を支えた重要人物だった
というのが一番しっくりきます。
正史と『三国志演義』・ゲームで違う夏侯淵像
夏侯淵も、ゲームから三国志に入った人ほど史実との違いを楽しめる武将です。
僕が最初に持っていたイメージは、
弓が上手い。
黄忠のライバル。
ちょっと動きが鈍そう。
夏侯惇といつも一緒。
という感じでした。
しかし正史を見ていくと、
弓の名手としての描写より、機動力が有名。
驚くほど素早く軍を動かす。
夏侯惇の部下ではない。
西方を任されるほどの指揮官。
という姿が見えてきます。
かなり違います。
でも僕は、ゲームで作られた夏侯淵のイメージも好きです。
ゲームをきっかけに人物を知って、
「実際はどんな武将だったんだろう?」
と調べてみる。
すると、さらに面白い人物が出てくる。
これも三国志の楽しみ方の一つだと思います。
夏侯淵をもっと知りたい人におすすめ
夏侯淵を知るなら、夏侯淵だけで終わらせず、
夏侯惇
曹操
馬超
黄忠
劉備
法正
なども一緒に調べてみるのがおすすめです。
特に定軍山は、
「黄忠が夏侯淵を倒した」
だけで見るより、
なぜ劉備が漢中を欲しがったのか
なぜ曹操が夏侯淵に漢中方面を任せたのか
まで知ると、一気に面白くなります。
まとめ|夏侯淵は「弓」より「速さ」がすごかった魏の名将
夏侯淵について、僕はずっと、
「黄忠と肩を並べる弓の名手」
というイメージを持っていました。
ゲームでは動きも少し鈍そうに見え、夏侯惇についていく武将のようにも感じていました。
しかし史実の夏侯淵は全然違います。
軍中で、
「三日で五百里、六日で千里」
と称されるほどの機動力を持ち、
西方各地を転戦。
馬超らの勢力と戦い、
韓遂を破り、
宋建を滅ぼし、
最終的には曹操から漢中方面を任されるまでになります。
まさに、
自分の力で曹操軍の主力へ上り詰めた武将
です。
しかし219年。
定軍山で黄忠ら劉備軍の攻撃を受け、戦死しました。
僕はどうしても考えてしまいます。
「夏侯淵がここで死ななかったら、どこまで活躍したんだろう?」
曹丕の時代まで生きていたら。
魏のさらなる西方攻略を任されていたら。
もっと大きな功績を残した可能性もあったのではないでしょうか。
そして、夏侯淵がこれほどの武将だったと知るほど、
その夏侯淵を定軍山で討ち取った黄忠のすごさも際立ちます。
ゲームでは「弓の夏侯淵」。
史実では「神速の夏侯淵」。
両方を知ったうえで見ると、僕は以前より夏侯淵という武将がずっと面白く感じます。
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【今後追加予定】
- 黄忠とは?定軍山で夏侯淵を討った蜀の老将
- 馬超とは?西涼の猛将から劉備の五虎大将へ
- 漢中の戦いとは?劉備と曹操が激突した重要決戦
