三国志には「強い」と言われる武将が数多く登場します。
呂布。
関羽。
張飛。
趙雲。
張遼。
許褚。
その中でも、純粋な「怪力」という言葉がこれほど似合う武将はなかなかいません。
典韋(てんい)です。
僕が典韋を最初に見たときは、
「めちゃくちゃ強そう。でも、ちょっと危険な怖さもある」
という印象でした。
実際に典韋の生涯を調べてみると、そのイメージも分からなくありません。
後世まで語られるほどの怪力。
呂布軍を相手に見せた圧倒的な武勇。
そして最後は、
曹操を逃がすために自ら門を守り、敵の大軍と戦って死亡する。
僕が典韋を好きなのは、この最期が大きいです。
もし自分だったら、
「曹操を守りながら自分も一緒に逃げられないか?」
と考えると思います。
でも典韋は、自分がその場に残って敵を食い止める道を選びました。
並大抵の忠誠心や度胸ではできないと思います。
今回は、そんな典韋について、
- どれほどの怪力だったのか
- 曹操に仕えるまで
- 呂布軍との戦い
- 曹操の護衛になった理由
- 典韋の武器・双戟
- 張繍の反乱
- 曹操を逃がした壮絶な最期
- 曹操は典韋の死をどう受け止めたのか
- 許褚とはどちらが強かったのか
- 正史と『三国志演義』の違い
まで、初心者にも分かりやすく紹介します。
- 典韋とは?基本プロフィール
- 若いころから危険な雰囲気がすごい典韋
- 典韋の怪力は本当だった?
- 「典君の双戟は八十斤」軍中でも怪力で有名だった
- 夏侯惇の部下として曹操軍へ
- 典韋VS呂布軍|濮陽で見せたとんでもない武勇
- 曹操が典韋を自分のそばに置いた理由
- 典韋は曹操のそばからほとんど離れなかった
- 典韋は大食漢でもあった
- 張繍の降伏|ここから典韋最後の戦いが始まる
- 張繍が反乱!曹操軍が大混乱に
- 典韋、門を死守する
- 数十か所の傷を負っても戦い続けた典韋
- 最後まで敵へ向かっていった典韋
- 自分なら「一緒に逃げよう」と考えると思う
- 典韋の犠牲で曹操は脱出できた
- 曹操は典韋の死を聞いて涙を流した
- 典韋の息子・典満はどうなった?
- 典韋はどれくらい強かった?
- 典韋と呂布ならどっちが強い?
- 典韋と許褚はどっちが強い?
- 典韋と許褚は正史で一騎打ちしていない
- 正史と『三国志演義』|典韋は創作抜きでも十分すごい
- 典韋がもっと長生きしていたら?
- まとめ|典韋は命と引き換えに曹操を守った怪力の忠臣
典韋とは?基本プロフィール
名前:典韋(てんい)
出身:陳留郡己吾県
主君:張邈配下→夏侯惇配下→曹操
役割:曹操の護衛・親衛隊指揮官
特徴:並外れた怪力と武勇
主な武器:双戟・長刀など
最期:197年、張繍の反乱で戦死
典韋は曹操軍を代表する猛将の一人です。
ただし張遼や曹仁、夏侯淵などとは少しタイプが違います。
大軍を率いて一方面を攻略するというより、
曹操のすぐそばにいて、その命を守る武将
として活躍しました。
後に同じような役割を担う許褚と並び、
「曹操の護衛といえば典韋・許褚」
というイメージを持っている人も多いでしょう。
若いころから危険な雰囲気がすごい典韋
僕はゲームなどで初めて典韋を見たとき、
「ちょっと危険な怖さがある人だな」
と思いました。
正史に記録された若いころの典韋を見ると、その印象もあながち間違っていなかったのかもしれません。
典韋は体格が大きく、並外れた力を持ち、任侠心のある人物だったとされています。
若いころ、劉氏という人物のために仇討ちを行いました。
相手は李永という人物。
警備が厳重だったため、典韋は客を装って屋敷へ入り、李永とその妻を殺害します。
その後、武器を持って堂々と立ち去りました。
周囲は大騒ぎ。
数百人が追ってきたものの、
典韋のあまりの迫力に簡単には近づけなかった
と記録されています。
かなり強烈です。
現代の価値観で肯定できる行動ではありませんが、当時から典韋が、
「ただ者ではない人物」
として知られるきっかけになりました。
典韋の怪力は本当だった?
典韋最大の特徴といえば、
怪力。
これは『三国志演義』だけの設定ではありません。
正史にも典韋の力について複数の記録があります。
典韋が張邈の軍にいたころ。
軍で使用する大きな牙門旗がありました。
普通の人では持ち上げることが難しかったのですが、
典韋はそれを一人で持ち上げた
とされています。
これを見た上官は典韋の力に驚きました。
ゲームなどで典韋が「パワー型武将」として描かれるのには、ちゃんと史実上の理由があるのです。
「典君の双戟は八十斤」軍中でも怪力で有名だった
さらに有名なのが典韋の武器です。
典韋は、
大きな双戟と長刀
を好んで使ったとされています。
そして軍中では、典韋についてこんな歌まで生まれました。
「帳下の壮士に典君あり、双戟を提ぐること八十斤」
つまり、
「曹操の陣営には典韋という豪傑がいて、とてつもなく重い双戟を扱っている」
という意味です。
当時の「斤」を現代の重量へ単純換算することには注意が必要ですが、大切なのは具体的なキログラム数ではありません。
典韋が非常に重い武器を扱う怪力の持ち主として、同時代の軍中でも有名だった
ということです。
僕が典韋をかっこいいと思う理由の一つもここです。
ゲームだから怪力にされたのではなく、
2000年近く経った現在まで怪力の武将として名前が残っている。
それだけでもすごいと思います。
夏侯惇の部下として曹操軍へ
典韋は最初から曹操直属だったわけではありません。
張邈の軍にいた後、
夏侯惇の配下
となります。
そこで戦功を挙げ、やがて曹操から直接注目されるようになります。
典韋の人生を大きく変えたのが、
呂布との戦い
でした。
相手は三国志最強候補として必ず名前が挙がる呂布です。
ここで典韋は、自分の武勇を曹操に強烈に印象づけます。
典韋VS呂布軍|濮陽で見せたとんでもない武勇
曹操と呂布が争っていたころ。
曹操軍は呂布軍と激しい戦いになります。
戦況は厳しく、曹操は敵陣へ突入する精鋭を募集しました。
ここで真っ先に名乗りを上げたのが、
典韋。
典韋は数十人の兵とともに戦います。
しかも盾を捨て、
重ねて鎧を着込み、
長矛や戟を持って敵に向かいました。
敵からは大量の矢が飛んできます。
それでも典韋は敵を見ようとせず、周囲の兵に距離だけを報告させました。
「敵が十歩まで来たら言え」
十歩。
さらに、
「五歩になったら言え」
味方が恐怖で叫びます。
敵が目の前まで迫った瞬間――。
典韋が攻撃を開始します。
典韋が戟を投げると、敵兵が次々と倒れたと記録されています。
その猛攻によって呂布軍は後退しました。
曹操が典韋を自分のそばに置いた理由
この活躍によって、典韋は曹操から高く評価されます。
曹操は典韋を都尉に任命。
さらに、
自分のすぐそばへ置きました。
典韋は数百人の親兵を率い、曹操の本陣周辺を守る役割を担当します。
ここから、
「曹操の護衛・典韋」
という立場が確立していきます。
曹操には多くの猛将がいました。
その中で、
自分の命を直接守る仕事
を典韋に任せた。
これはかなり大きな信頼だったと思います。
典韋は曹操のそばからほとんど離れなかった
典韋の忠誠心が分かる記録もあります。
典韋は非常に忠実で慎重な性格だったとされています。
昼間は一日中曹操のそばに立って仕え、
夜になっても曹操の帳幕付近で寝泊まり。
自分の寝床へ帰ることはほとんどなかった
と記録されています。
これを知ると、典韋の最期がさらに重く感じられます。
張繍の反乱が起きた瞬間だけ、
突然曹操を守ろうとしたわけではありません。
普段から、
「曹操を守る」
という仕事に徹していた人物だったのです。
典韋は大食漢でもあった
怖い話ばかりの典韋ですが、ちょっと人間らしいエピソードもあります。
典韋は、
ものすごく食べ、ものすごく飲んだ
と記録されています。
一人分では足りないほど飲食するため、曹操の前で食事をするときには、何人もの給仕が必要だったそうです。
曹操もそれを見て、
典韋の豪快さを気に入っていたようです。
怪力。
巨大な武器。
大食漢。
ものすごく分かりやすい豪傑です(笑)。
張繍の降伏|ここから典韋最後の戦いが始まる
197年。
曹操は荊州方面へ進軍し、宛へ向かいます。
そこにいたのが、
張繍(ちょうしゅう)
です。
張繍は曹操に降伏しました。
曹操は喜び、張繍やその配下を招いて宴会を開きます。
このとき曹操の後ろに立っていたのが、
典韋。
典韋は大きな斧を持って曹操を護衛しました。
その迫力はすさまじく、張繍らは典韋を前にして顔を上げることさえできなかったと記録されています。
しかし――。
張繍の降伏から十日余り。
事態は一変します。
張繍が曹操に反旗を翻したのです。
張繍が反乱!曹操軍が大混乱に
張繍軍は曹操の陣営を急襲します。
曹操は戦いますが、不利な状況になりました。
このままでは曹操自身が危ない。
そこで曹操は、
少数の騎兵とともに脱出します。
しかし曹操が逃げるためには時間が必要です。
誰かが敵を食い止めなければなりません。
その役目を果たしたのが、
典韋でした。
典韋、門を死守する
典韋は門の中で敵を迎え撃ちます。
典韋がいるため、
張繍軍は門から中へ入ることができません。
敵は別の門から侵入し始めます。
典韋のそばに残っていた兵は、
わずか十数人。
それでも全員が命懸けで戦いました。
正史には、
一人で十人を相手にするほどだった
という意味の記録があります。
しかし敵兵は次々と押し寄せてきます。
数十か所の傷を負っても戦い続けた典韋
典韋は長戟を使って敵を攻撃します。
敵の武器を次々と破壊。
しかし味方は次々と倒れ、
典韋自身も、
数十か所の傷
を負いました。
普通なら、もう戦える状態ではないでしょう。
それでも典韋は止まりません。
戦いはついに接近戦になります。
敵兵が典韋へ襲いかかりました。
すると典韋は――。
敵兵二人を両脇に抱え、そのまま殺した
と正史に記録されています。
これを見た敵兵は恐れ、
簡単には近づけなくなりました。
怪力の伝説は、最後の最後まで続きます。
最後まで敵へ向かっていった典韋
典韋は重傷を負っています。
味方もほとんど残っていません。
それでも典韋は、
自分から敵へ向かっていきます。
さらに数人を倒しました。
しかし、さすがの典韋も限界でした。
傷が悪化。
そして最後は、
敵を睨みつけ、大声で罵りながら死亡した
と記録されています。
典韋が死ぬと、ようやく敵兵たちが近づきました。
その後、典韋の首を取り、兵たちがその遺体を見に集まったとされています。
壮絶という言葉だけでは足りないような最期です。
自分なら「一緒に逃げよう」と考えると思う
僕が典韋について一番すごいと思うのは、
やっぱりこの最期です。
曹操を逃がすために門を守る。
言葉で書けば簡単です。
でも自分が同じ立場だったらどうするか。
僕だったら、
「曹操を守りながら、自分も一緒に逃げる方法はないか?」
と考えると思います。
死にたくありません。
家族だっているかもしれない。
生き残りたいと思うのが普通だと思います。
でも典韋は、
自分が残って敵を食い止める
という道を選びました。
しかも形式的に時間を稼いだだけではありません。
仲間が倒れ、
自分が数十か所負傷しても、
最後まで敵へ向かっていった。
僕には到底できるとは思えません。
並大抵の忠誠心と度胸ではない。
だから典韋はかっこいいんです。
典韋の犠牲で曹操は脱出できた
典韋が門を守っている間に、
曹操は戦場から離脱しました。
つまり典韋は、
自分の命と引き換えに主君を逃がす
という、護衛として最後の役割を果たしたことになります。
しかし曹操側の被害も非常に大きなものでした。
この宛城の戦いでは典韋だけでなく、
曹操の長男・曹昂
なども命を落としています。
曹操自身にとっても非常につらい敗戦になりました。
曹操は典韋の死を聞いて涙を流した
曹操は舞陰まで退却します。
そこで典韋が戦死したことを知りました。
正史には、
曹操が典韋の死を聞いて涙を流した
と記録されています。
さらに曹操は人を募って典韋の遺体を取り戻しました。
そして、
自ら典韋の死を哭した
とされています。
遺体は故郷の襄邑へ送られ、埋葬されました。
曹操はその後も典韋を忘れません。
その墓の近くを通る際には、典韋を祭ったと記録されています。
典韋が曹操を命懸けで守った。
そして曹操も、その死を忘れなかった。
僕はこの関係もすごく好きです。
典韋の息子・典満はどうなった?
典韋には、
典満(てんまん)
という息子がいました。
典韋の死後、曹操は典満を郎中に任命します。
さらに曹操は典韋を思い、典満を自分の近くへ置きました。
後に曹丕の時代になると、典満は都尉となり、
関内侯
の爵位も与えられています。
父親が命を懸けて曹操を守った。
曹操もその恩を忘れず、息子を大切にした。
ここにも典韋と曹操の関係が表れていると思います。
典韋はどれくらい強かった?
三国志でよく話題になるのが、
「典韋って実際どれくらい強いの?」
という疑問です。
正史にはゲームのような武力数値はありません。
そのため、
「典韋の武力は98」
「呂布の次に強い」
などと史実として順位を決めることはできません。
ただし典韋については、
並外れた力を持っていた
という記録が明確にあります。
大きな牙門旗を一人で持ち上げる。
重い双戟を扱う。
呂布軍を相手に敵が近づくまで待ち、攻撃して退ける。
数十か所負傷しても戦う。
敵兵二人を両脇に抱えて倒す。
これだけの記録が残っています。
少なくとも、
同時代でも怪力と武勇で知られた人物
だったことは間違いないでしょう。
典韋と呂布ならどっちが強い?
これは決着をつけることができません。
典韋は呂布軍との戦いで活躍していますが、
正史で典韋と呂布が一騎打ちをしたわけではありません。
ただ面白いのは、
三国志で最強候補とされる呂布の軍を相手にして、典韋が強烈な活躍を見せていることです。
純粋な怪力だけなら、
典韋も三国志屈指だったのでは?
と思いたくなる記録がいくつもあります。
だからこそ、ゲームなどで典韋が最高クラスの武力を持つキャラクターとして描かれるのも納得できます。
典韋と許褚はどっちが強い?
そして絶対に比べたくなるのが、
典韋VS許褚。
二人とも怪力。
二人とも曹操の護衛。
二人とも曹操から強く信頼されました。
『三国志演義』では二人が戦う場面まで描かれています。
僕は、
どちらも好きなので互角にしたい
です(笑)。
ただ、あえて考えるなら、
乱世を長く生き残った許褚の方が強そう
という感覚もあります。
許褚は曹操の死後まで生き、曹丕・曹叡の時代にも仕えました。
一方、典韋は197年というかなり早い時期に亡くなっています。
だから典韋は、
「もしもっと長く生きていたら?」
という想像をしたくなる武将でもあります。
もし典韋が生き残り、
典韋と許褚が二人そろって曹操を守っていたら――。
とんでもなく頼もしい護衛だったでしょう。
▶ 今後公開予定:典韋と許褚はどっちが強い?曹操を守った二大怪力武将を比較
典韋と許褚は正史で一騎打ちしていない
ここは重要です。
『三国志演義』では、典韋と許褚が激しく戦います。
しかし、
正史『三国志』に二人が一騎打ちした記録はありません。
正史では典韋と許褚は、それぞれ別の経緯で曹操に仕えています。
そのため、
「史実で典韋と許褚は互角だった」
と断定することはできません。
二人の比較はあくまで、
残された記録から想像して楽しむもの
と考えた方がいいでしょう。
正史と『三国志演義』|典韋は創作抜きでも十分すごい
三国志の武将には、
『三国志演義』によって実際以上に強烈な人物として描かれたケースもあります。
典韋も演義では非常に豪快な猛将として描かれています。
しかし典韋の場合、
正史だけ読んでも十分すぎるほどすごい
です。
怪力。
巨大な武器。
呂布軍との激戦。
曹操の護衛。
張繍軍を門で食い止める。
数十か所負傷しても戦う。
敵兵二人を両脇に抱えて倒す。
最後まで敵を罵りながら戦死する。
「これ本当に正史?」
と思ってしまうくらい壮絶です。
だから僕は、
典韋は史実そのものがすでに英雄物語のような武将
だと思います。
典韋がもっと長生きしていたら?
典韋が亡くなったのは197年。
曹操の生涯を考えると、かなり早い時期です。
この後には、
官渡の戦い。
赤壁の戦い。
潼関の戦い。
漢中をめぐる戦いなど、
曹操にとって重要な戦争がいくつも待っています。
もし典韋が宛城を生き延びていたら。
許褚と一緒に曹操を守っていたら。
どんな活躍をしたのでしょうか。
大軍を率いる将軍になっていたのか。
それとも最後まで曹操の最強の護衛としてそばにいたのか。
答えは分かりません。
でも、
もっと典韋の活躍を見たかった。
そう思わせる武将です。
まとめ|典韋は命と引き換えに曹操を守った怪力の忠臣
典韋は、
「怪力の猛将」
という言葉が非常によく似合います。
若いころから並外れた力で知られ、
一人では扱いにくい大きな旗を持ち上げ、
重い双戟を使用。
呂布軍との戦いで活躍したことで曹操から評価され、
やがて曹操直属の護衛となりました。
しかし197年。
張繍が曹操へ反旗を翻します。
曹操は危機に陥り、戦場から脱出。
そのとき典韋は、
曹操を逃がすため門に残りました。
仲間は次々と倒れる。
自分も数十か所負傷する。
それでも戦う。
敵兵を両脇に抱えて倒し、
さらに敵へ向かい、
最後は敵を睨みつけて罵りながら死亡する。
僕が典韋を好きなのは、
怪力だからだけではありません。
そこまでして曹操を守ろうとした忠誠心が、とにかくかっこいい。
僕だったら、どうにか曹操と一緒に逃げる方法を考えると思います。
典韋のように、
「自分がここに残るから主君は逃げろ」
という決断ができる自信はありません。
それを実際にやり遂げた。
並大抵の忠誠心でも、並大抵の度胸でもないと思います。
そして曹操も典韋の死を知って涙を流し、その後も典韋を祭りました。
だから僕にとって典韋は、
ただ力が強いだけの武将ではありません。
怪力。
勇気。
忠誠。
そして自己犠牲。
それらすべてを持った、
曹操を命懸けで守った最強の護衛の一人
です。
典韋と許褚。
どちらが強かったのかと聞かれたら――。
許褚の方が乱世を長く生き残った分、強そうな気もします。
でも僕は二人とも大好きなので、
やっぱり互角にしておきたいです(笑)。
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